おおいなるけんげんのひ

 おそろしい連中がやってきたのは水曜日と木曜日のことだった。その日は大嫌いな体育の授業が三時間目からあって、起きた時から気分が暗かったのを覚えている。着替えを して、石のように重い脚を引きずりながらリビングへ行くと、先に朝食を食べ終わっていた父と母がいままで見たことのないような表情でテレビのニュースを見ていた。どうや ら私たちの住む国と隣の国が戦争を始めるというやつで、私たちの国の偉い人が怒っているのかもよくわからない表情で視聴者に向かって演説なんかをしていた。 「戦争するの?」  よくわからなくなって父に聞く。戦争は国同士の問題解決の一種だが、それはちっとも賢いやり方ではないことを学校で習っていた私にとって、戦争という賢くないやり方を することは、自分には理解できなかった。理解できないものは父に教えてもらうのが定石だった。私の率直な質問に父は困り果てたようで、うーん、と言ったきり黙ってしまっ た。 「お父さんや近所のおじさんやお兄さんも戦争に行かされちゃうの?」  こんどは母に聞いた。母は質問に答えてくれなかった。 朝食の用意されてあるテーブルに着いたとき、電話が鳴った。皿にはトーストと昨日買ったらしき総菜の残りがあったことを覚えている。私は母が電話を取りにいったのを横目 にテレビを見ながらトーストを食べた。 「――」 父がなにか言ったような気がして父の方を見ると、その髭を剃ったばかりの頬をかきむしり始めていた。テレビを見ながら、見たことのない表情をそのままに、赤い跡が付くの もお構いなしに無心にかきむしっている。思わずトーストを食べる手が止まる。痛くないのだろうか?そのうち父の頬から血が出てくるのではないか?  頬かきむしる動きは段々早くなっていく。  しかしそれだけではなかった。なんと父は頬をかきむしるのをそのままに、開いているほうの手で私の朝食の総菜をこちらを見もせずにばりばりと食べ始めたのである。  不安のあまり思わず声を掛けようとしたその時、母が電話を切った。電話を急いで切ったのだろう。がちゃんという大きな音がして、それで父は我に返ったようだった。 私は、何も見なかったことにしたかった。  母は私に今日の学校は休みだと手短に伝えてくれた。私が歓喜の声を上げるよりも早く母は電話をかけ始めた。連絡網を回すらしかった。  トーストを食べ終え、私は部屋にもどった。本来ならばとっくに通学路を歩いている時間だが、学校が休み名なった道路には子供はいなかった。  学校カバンの中身をぶちまけた。そのときにはもう父親の異常など頭から抜け落ちていた。  何もすることがないのでリビングへ行ってソファに落ち着いてテレビを見る。どのチャンネルも開戦の話でもちきりだった。それにコマーシャルすら入らない始末で、緊急会 見の生中継の画面の左上に、時間と天気予報が邪魔しない程度に映っていた。 「今日は外に出ないようにしなさい」  言ったのは父だったか母だったかは覚えていない。でもどちらかが私にそういったのは覚えている。その日は私と両親とで一日中家にいたのだ。 CMの途絶えたテレビが一日中ついているという異常はあったけれど、その日は本棚にある読んだことのない本を読んだり、両親とトランプをしたり、部屋の掃除をしたり家事を 手伝ったりした。夕食は奮発したものがでたが残念なことに献立は忘れた。 夕食が終わり、風呂に入り、そして私は9時に就寝した。ソファに座って緊急特番の番組の流れるテレビを見ている両親におやすみの挨拶はちゃんと言えたのは覚えている。返 事が返ってきたのも覚えている。  それが家族との最後の団欒だった。  夢を見ていた。私はどこかで綱渡りをしていて、ぐらぐらと大きな揺れを感じるのは、私が綱渡りが下手なせいだと思った。機械のエンジンのような大きな音がするのは、綱 渡りを撮影されているからだと思った。そして私は意識のどこかでこれを夢だと解っていて、早く覚めろ早く覚めろとぼんやり考えていた。  不安定な状態を維持しながら綱渡りをしていたが、とうとう落ちてしまった。  目覚めて最初に見たのは照明と天井ではなく、橙色を反射したような厚く曇った空だった。周りをみると、自分の家だけではない、右隣の家も左隣りの家も、そのまた隣の家 も、まるで竜巻が来たかのように建材やコンクリートがボロボロになったものを剥き出しにしてぺしゃんこになっていた。自分の部屋の壁の中身はテレビで竜巻に巻き込まれた 家屋だとか震災で倒壊して火がついている市街地だとかをみたことがあるが、それがいっぺんに来た感じだった。  心臓は早鐘を打っていて、パジャマと体は汗と土埃で汚れていた。  倒壊した近所の家の向こうで煙が幾つか上がっているのが見えた。火事に巻き込まれてはいけないため、ベッドから急いで出た。床はほぼ地面になっていたため、ガラスやコ ンクリの破片を踏まないように玄関のあった場所まで靴を取りに行った。今考えるとあまりにも呑気すぎな行動であった。これは天災が起きたが、自分や両親は無傷で助かると 思っていたのだろう。  靴は、いつも履いているものの片方は見つかったが、もう片方はなかなかみつからなかった。もう片方の靴は道路だった場所に飛んできたらしい他所の家の屋根の上に乗って いた。当然飛んできた屋根なのだからかろうじて屋根とわかるものだったが。  屋根の上でやっと両足の靴を履くことが出来た。ほっとしたとき、両親はどこだろうと思った。途端、胸に洪水のようにどっと不安が押し寄せてきた。家だった場所は部分的 に崩壊していて(そのおかげで私は助かったともいえるが)、ひょっとしたら瓦礫に押しつぶされて助けを待っているかもしれないし、私のことをあきらめて避難場所に指定さ れている公園や学校に避難しているのかもしれなかった。周りを見渡してみても、不思議なことに自分のような人は誰もいなかった。  その時、あたり一面が、まるで厚い雲が太陽を遮った時のように暗くなった。  上から、夢で聞いたエンジン音のような大きな音が聞こえた。  思わず何時ともわからない空を見上げた。  飛んではならないものが飛んでいた。  それは天使の石像が、渡り鳥のように群れをなして飛んでいるようであった。あまり明るくないから戦闘機なんかの見間違いかと思われるだろうが、断じてそれはあり得ない。 その飛行する物たちには、一つ一つに顔があったのだ。みんながみんな、無表情の、不気味な仮面のような顔をしていた。間違いなくあれは顔だった。みな地上、つまりはこち ら側に顔を向けながら飛んでいたのである。 燃える橙色の空を背景に、灰色の天使のような、機械と石でできたような人型の代物が趣味の悪いアクセントになっていると思ったら、1分もかからないうちに空が埋め尽くさ れた。一人ひとり(?)が銃や箱、数人がかりでコンテナのようなものを吊り下げて運んでいたりした。手ぶらの物は一切いなかったように思える。 そこまで把握したとき、私は、そのうちのひとりと、目が合った気がした。 とっさに地面に突っ伏した。 恐怖というよりは、いっぺんに起きたことに頭が付いていけなかったストレスだと思う。叫んだり失禁しなかっただけまだ余裕だったのだろう。前述のように、まだいいほうに 物事が働くと思っていた。  石と機械の天使たちは私の方に顔を向けながらそれを無視して東の方向へ飛んで行った。5分もかからなかったように思える。顔を上げると天使たちはもう蟻のように小さく 見えた。  そのあとどのようにして避難所である学校に行ったか覚えていない。家だった場所と距離の近い公園に行かなかったのは、とにかく空を見たくなかったからかもしれない。私 は気が付いたら友達に譲ってもらったらしい服を着て、体育館の舞台の隅で蹲っていた。時刻は昼頃だというのに、体育館の窓からかろうじて見える空はいつの間にか冷めたよ うな灰色をしていた。大嫌いな体育を思いださせる体育館が頼もしいと思ったのは後にも先にもこの時だけだろう。学校の友達や先生や近所の人がいるのもわかってくると段々 安心してきたが、今度は両親のことが気になってきた。目覚めたらいなかったのだ。立ちあがり、体育館中を回ったが、すぐにそれどころではないと悟った。体育館にいる人々 は皆、誰かしら家族が見つからないのである。  知人や知らない避難者を当たってみても誰も両親を見たという人はいなかった。体育館を抜け、校舎の避難者を当たってみたが徒労に終わった。  校庭に出た。空は曇っていたが、それは厚い雲で青空と太陽が隠されているからではなく、もっと違うもの、例えば煤や灰で隠れているのではないかと思える。足の裏が痛く なっていたので、校庭の校舎側にあるベンチに腰を下ろしてそれを暫くみていた。できれば何も考えたくなかった。  灰色の空からは、雪ではなく、灰が降ってきそうな気配もしていた。 校庭にふらふらとした足取りで誰かが入って来た。入って来たのをこちらが見送る形になるので顔はわからないが、少なくとも知っている後ろ姿ではなかった。落胆したの もつかの間、また誰かが入って来た。振り向いてみると、それは嫌いな体育の先生だった。一瞬ぎょっとしたどくは無いが気になるくらいにはふらふらとしていた。両目は 真っ赤に充血しており、それがこぼれ出そうなほどに見開かれており、瞬きは全くなく、しかし狂人とか気違いとかそんな目ではなく限りなく普通の人の理性的な目つきで あった。 そして、その頬にはひっかき傷があった。おまけにそこから血が出ている。そして今この瞬間にも血の流れる頬をひっかいている。 何か思い出しそうになったがとっさに思い出してはいけないと思った。担任は私を無視して校庭の中心まで歩いて行った。中心につくとその場で立ち止まった。二人の男が頬 をひっきりなしにかきむしりながら横に並んでいる。頭の中で明確な警報が鳴る。なのに、ベンチから立ち上がれないでいる。次々と頬から血を流したり掻いたりしている人 達が入ってきて、列に加わっているからだった。 その内危惧していた最悪のことが起った。父がふらふらと校庭に入って来たのだ。充血した目を見開き、血の流れる頬を一心不乱に掻いている。昨日の朝のことを思い出した。 「待ってよお父さん!」 列に並んだら父は帰ってこれなくなる――――そうだという根拠のない確信に突き動かされ、父を呼び止める。が、父は何も聞こえていないかのように止まらない。 「待ってよ!」 こうなったら力づくでも引き留めなければならない。私は父にかけより彼の服の裾を引っ張った。昨晩着ていた服と同じなことは後になって気づいた。それでも父は歩くのをや めなかった。私を引きずる形で列に向かっていく。地面に跡を刻みながら必死になって引きずられている内に、顔面にものすごい、それこそ掴んだ手を放してしまうほどの衝撃 が来た。顔を抑えてその場に蹲る。 肘だ。エルボーだ。関節だ。父は私の顔に肘を食らわせたのである。顔を通して頭に来た衝撃もそうだが父に肘を食らった衝撃も、私を暫く蹲らせるのに十分な効果があった。 私は呻いた。 衝撃が薄くなるのに時間はかからなかったように思う。顔を上げると列は絶望的なまでに長くなっていて、当然その中に父も加わっているのだった。父も列に並んだ人々も皆、 橙色を無理やり灰色にしたような冷たい東の空を向きながら血を流しながら顔を掻いていた。校舎の方を振り返れば、窓から避難者たちが皆一様に不安げな表情で校庭を見て いた。目を逸らしたいのに逸らせない。逃げたいのに立ち上がれない。その時は完全に腰が抜けていたのだ。 困惑している中、唐突に背後から教室に引きずりこまれた。担任だった。思わず担任にしがみついた。担任は抱きしめてくれた。 思わず泣きそうになった時、教室で事態を見ていた誰かが言った。 「おい、テレビ点かないぞ」「教室の電気もだ」「ラジオ点けろラジオ」「点かない」  テレビで思い出したが昨日戦争が始まったとかの報道があった。今回の恐ろしい出来事は皆戦争のせいなのだろうか。「ブレーカー落ちたんじゃないの」「学校のブレーカーっ て落ちる物なの?」  いや違う。根拠は無いが何故かそうではないと思う。戦争もブレーカーも本題ではない。 「外みないようにね」  もちろんだ。二度と見たくない。 「何か来るぞ!」  しかしながら外を見てしまった。校庭ではなくその空を見た。窓に群がる大人たち越しにも、それが何なのか遠くにあってもはっきりと分かる。石造りの天使の群れが何かをも ってやって来たのだ。教室はたちまちのうちにざわめきに包まれた。  しかし、それが何なのか理解する暇を、窓辺にいた人々には与えられなかった。窓辺に群がっていた人々は突然踵を返して(私と担任以外にも避難者が幾人かいるにも関わらず) 廊下めがけて我先にと窓から教室のドアという短い距離を暴力的な勢いで走り去ったのだ。私と担任は当然何人かに踏まれて蒼あざが何カ所かにできるくらいのケガをした。将棋 倒しにならなかったのは不幸中の幸いかもしれない。  暴力の波が去ったあと、痛みで動けなかった。痛みがなくなるまでじっとしていたかったが、廊下から聞こえてくる罵声や悲鳴がそれを許してくれるはずもなかった。知らない 人々の叫びに交じって、担任の静止を求める声や嫌いな体育教師の怒鳴り声、クラスの友達や知っている上級生下級生の声が時々聞こえてくる。私は教室に一人になってしまった。 あの光景だけは見なければよかったと未だに後悔している。 【天使たちは、校庭に並んだ人々を、人々は、壊れた噴水みたいになって、天使たちは、スナック菓子でも食べるみたいに、天使たちは表情なんてないのに、天使たちは楽しそう に、人々は、父は、父が、バリバリと、天使たちは群がって、校庭が、皆抵抗しなくて、天使たちが、人々が、校庭が、鮮やかな色が浸み込んでいく】 自分を含めた学校の避難者たちは大混乱の内に校舎の外に出た。天使たちはあの後……教室入りこみ、教室や廊下に噛みついたりしていた。きっと食べていたのだと思う。学校が 一戸丸々なくなってしまったという話を後になって聞いた。 校舎から出た私たちは近くの市民会館に避難することになった。近くといっても車やバスで20分かかる場所にある。それに、学校より大きくても校舎に入るだけの人数を受け入れ てくれるかは怪しかった。 校長が先頭に立ち、避難者たちがそれに続き、教師たちがそれを誘導する形で長蛇の列ができた。私も当然その中にいた。先ほどの恐怖が拭えないなかクラスの背の順に並んであ るいていた。この中にいないクラスメイトもいて、順番は大分前の方になった。  道中建物と言えなくなった瓦礫で埋もれた道とは言い難い道をそのまま進んだり迂回しながら進んでいたので、到着は予定の倍近く時間がかかりそうだった。  私は歩いていたハズであった。どういうことだろう、それが熱い霧の中とてもおそろしいモノから走って逃げ回っていた。転んだ衝撃がまだ残っていて、体中がガンガンと痛 い。  天使の比ではないくらい恐ろしいものだった。大きさの問題だろうか。校舎の二倍くらい大きな、哺乳類では、まして爬虫類でも昆虫類でもない四つん這いの、おそらくは半 分機械の触手ような何かだった。  ソレは瓦礫の向こうから褐色の液体を触手からまき散らし音もなく列に近づいてきたのだ。  十何人という人々が一気にとソレの出す液体に溶かされ、私たちはパニックになり、蜘蛛の子を散らすようにみな散り散りになってしまった。中途半端に溶かされた人は暴れ ながらめちゃくちゃに叫んでいた。  さらに最悪なことにソレの射程範囲は広かった。逃げた方向に潜んでいた触手に溶かされた人を見て、進行方向を変えた先にいた触手に溶かされ、あるいは蹴とばされた人が 褐色の水たまりに転び、蹴とばした人は逃げた先にいた触手に、といった風に、次々と人が死んでいった。溶かされた人々はものすごい量の水蒸気と熱を発しながら蒸発し、あ たりは地獄絵図となった。  私はそんな人々と同じく、無我夢中で情けないほどに泣き叫び、時に人を押しながら逃げ回っていた。なぜ生き残ることができたのか不思議だった。気が付いたら知っている ような知らないような微妙な場所(当然瓦礫や倒木、細かい砂塵や霧でひどい)を歩いており、来ていた服はひどくボロボロになっていた。  周りが汚いせいで視界は悪かったし、おまけに灰色の空の遠くから天使たちの発していたエンジン音が聞こえてくる。周りには人っ子一人見当たらない。地面を見ても、蟻す らいなかった。こんな時に奴らが現れたら今度こそ死ぬだろう。怖くなって、心臓が破裂しそうになって、頭が締め付けられるようで、私はどこか隠れる場所に行きたかった。  父親は食べられてしまったし、母は見つからないし、クラスメイトや先生、学校にいた近所の人達とは離れ離れになってしまった。アレさえ来なければ、今頃は。  転んでしまった。どうやら切れた電線に引っかかったらしい。あっと思った瞬間に体を危険物まみれの地面に打ち付けていた。掌がぱっくり切れ、ズボンと右膝を擦りきって 血が出た以外に怪我はなかった。  途端、なんだかものすごく胸や頭から湧いてくるものを感じた。それは心臓と脳に音が響いてくるくらい血液を運ばせ、手足を侃侃諤諤と震わせ、上顎と下顎を強く細かく合 致させるものだった。私はそのまま体を小さく小さく縮こまらせた。  炎になったようだった。小さな炎だった。私はただの火の玉だった。酸素と可燃物が無いと消えてしまう、どうしようもなく弱い火だった そして、火が呼ぶのは、決まって獣か、あるいは人なのだ。  霧が濃くなってきた。近くでまた大勢の人が溶かされたのだ。生臭く湿った空気を肺に入れる。  それを渾身の力を込めて吐き切る。  恐る恐る顔を上げる。あの時と違うのは、余裕ゆえの恐怖からではなく、退路の無くなった崖っぷちからの、恐怖が飽和したものが私の顔を上げさせた。霧だらけだ。周りに は瓦礫しかない。もはやここがどこだかさっぱりわからないが、空からはそろそろ夜になりそうな気配がした。  完全に立ち会がったところで、霧のヴェールの向こう、わりと遠くにぼんやりと人影のような何かがみえた。それはこちらに近づいてくるようだった。段々と形がハッキリと してくる。万事休すと思ったが、それは人だった。多分兵隊だろう。出で立ちこそテレビで見るたことがあるような現代の歩兵だが、最大の差異として、その頭部に被ってい るのは顔が露出するタイプのヘルメットではなく、バイクのライダーが被っているのが厳つくなったようなヘルメットであり顔は窺えず、装備の全てがカーキ色ではなく黒色な ことだった。 「大丈夫ですか」 男の声だった。親しみの持てる声だ。一拍遅れて返事をする。よかったと兵隊の男は独り言のように言った。 「人間規模の熱源をこちらで探知しましたので、救助にまいりました」 「一人で?」 「この付近には貴方お一人かおりませんでしたので」  問題はそうでもあるがそうではない。 「ちょっと待ってよ、ここに来る前になんかでっかくてやばいヤツが来て、でっかいのに一人で何とかできるの!?死んじゃうよ!!」 そう訴えたが兵士は 「大丈夫です」 と余裕で言った。あろうことかそのまま「ついてきてください」と言って兵士は元来た方向に歩き始めてしまった。なんてヤツだ。そのときはそう思った。 歩いている間、兵士は私一人では越えるのが難しいような場所を越えるのを手伝ってくれたし、色々と話しもした。 「軍隊の人?」「まあそうですね」 「この国の人?」「国連です」 「どこに向かってるの?」「我々のキャンプですね」「基地があるの?」「簡単なものですよ」 「ところで名前は?」「16777」「は?」「16777番です」 幾つかの不可解な点があったが好奇心や不安の解消の方が勝っていたためスルーしてしまっていた。 「なんで黒いの?」「色は関係ありません」 「……あいつらのこと何か知ってるの?」「あいつらとは?」「空飛んでる羽生えたやつとか、でっかくて液体出すやつとか……」 兵士は少し黙ったあと、親切にも私の知りたくなかったことまで教えてくれた。 「あなたが言っている『でっかくて液体出すヤツ』のことですが……アレがどこから来たのかは分かっていませんが、少なくともアレは現代の技術で破壊可能な存在です。体液 の排出孔が開いた瞬間に手榴弾等の爆発物を投げ入れれば破壊されます。体液はまき散らされるのでお勧めできませんが、現状それしか対処の使用がありません。」  学校の避難者には手榴弾を持っている人はだれ一人としていなかった。ヤツから褐色の体液が排出される瞬間を思い出す。あの大きさの孔に投げ入れるのか?手榴弾を? 「アレを一体破壊するのに人数はいりません。なので来たのが私一人なのです」  訓練を受けた兵士ならば一人でアイツを倒せるのか、それともあの中の誰か一人でも 「あと『空飛んでる羽の生えたヤツ』のことですが」 「そいつらが僕のお父さんを殺したんだ」  先を歩いていた兵士が振り返って立ち止まる。ヘルメットのバイザーのせいで表情は見えない。 「ね、あいつらもやっつけてくれる?」  私は兵士に期待していた。一人であれを倒せるなら、現代の科学力でアレを倒せるなら、私にも倒せるだろうと。  兵士は無言で歩き出した。 「ねえ!」 「知りたいんですか?」  急に立ち止まられたのでぶつかっってしまった。 「何を!?」 「『天使』を」 『天使』が何なのか一瞬解らなかったが、空を飛ぶ石造りの天使のことだ。まさか本当に天使と呼ぶとは思わなかった。  もちろんだと言うと、兵士は頭を振り、知らないほうがいいですと答えた。今思うとその時はまだ知らないほうがよかったかもしれないが、当然幼い私は納得しなかった。 男は私に背を向けて再び歩き出した。  ねえ。そのうち解ります。  霧がさっきよりも濃くなってきた。問いただそうと駄々をこねていた私は思わず兵士の後ろにピタリとくっついた。兵士も警戒しているのかさっきから歩くのが遅くなってい る。それでも一定の歩調を保ったまま歩いているのはまさしくプロであった。足元の瓦礫も少なくなり大分歩きやすくなっている分、逆に隠れる場所も少なくなってきている。 ふいに、生臭い臭いが漂ってきた。不安は確信に変わった。そのとたん兵士は私を犬みたいに抱えて走り出した。乗ったことは無いが、まるでバイクにでも乗ったかのような風 が私の顔という顔に文字通りたたきつけられた。だからバイクのリはヘルメットをしているのか!と妙に感心したのを覚えている。  そうともしている内に兵士が走りながら胸の装備入れから銃のような物を取り出した。銃でアイツに応戦するのかと思ったらソレを曇った空に向かって撃った。灰色の空に、 軽い破裂音とともに火の玉のようなものがリズミカルに明滅しながら消えていった。 「応援を呼びました。アレは6体いるので、応戦していては限りなく不利です。呼ばなければ10分以内に確実に我々は死亡します。応援は5分以内に到着する筈です」 「手榴弾は!?」 「救助に来る途中3つ使用しました。残るは2つのみです」  私のところに来るまでに3体もアイツが出たのだ。それを彼は3体全て倒したのだ。でも今度はそれが6体も出たのだ。一対一で勝てたとしても一対二で負けるのがこの戦闘で あった。  上下の激しい時速60キロの会話は恐ろしく体が辛かったが死の恐怖がそれを上塗りしていった。車の出すスピードで走っているというのに背後からハッキリとジュウジュウ音 がしていて、それが段々近くなっている。しかも瓦礫を崩して蹴散らしているような音までしている。学校のみんなといたときは音などさせていなかったのに。静かにする必要 が今のアイツ等にはないのだ。  ふと、私を運ぶ兵士のスピードがわずかながら落ちた気がした。走る私たちの視界に触手が見えたとおもったら、どん、と瓦礫の地面に打ち付ける。兵士は明らかに減速して いた。走る視界が生臭い水蒸気に包まれる。兵士はなぜスピードを落としているのだろう。このままでは次にアレが来たら絶対に死ぬと確信してしまった。  私は完全にパニックになりかけていたが、兵士は叫んだ。 「応援来ましたよ!予定より早い」  私たちの両脇を、風を切るような速さで何かが横切った。兵士は減速しながら足を完全に止めてしまった。抱えられた状態から頑張って振り返るとアイツは霧のヴェールの向 こうでまるで何かに襲われているようにもがいていた。  面食らっていると重苦しい音が聞こえてきた。例のエンジンの音である。校庭での恐怖が、怒りとともによみがえった。「この音だよ!この音!お父さんがさあ!!!」 暴れながら思わず叫ぶ。これはもう憎すぎる親の仇を一発殴ってやらねば気が済まぬと思っていた。しかし兵士は落ち着いて曇天を見ていた。兵士の顔はヘルメットで隠されて いて表情は分からない。しかし、兵士が何を考えているのかは分かった。父親のために暴れていた私はやがて、このどうしようもない怒りを兵士にぶつけるために暴れていた。 知らないほうがいいと兵士が言ったのはこのことだったのだ。  やがてエンジン音をさせながら、石造りの天使の群れからその内の一体が私たちの目の前に降りてきた。天使は男とも女ともつかない美しい容姿に、石造りに見えていたのは 光を反射しないグレーの装甲であり、翼も同じ物でできていた。  私は天使を睨んだ。その顔をどこかで見たことがあるような気がした。  背後では天使が武器でも使っているのかすごい音がしていた。 兵士と天使は睨む私をそのままに私にはわからない言語で会話し始めた。あとで分かったことだがこの時話されていた言葉はエスペラント語だった。小脇に抱えられているの に、蚊帳の外だった。 「ではあなたはここからはこの天使とともに基地へ向かって下さい」  突然の兵士の言葉に私はまたもや面食らったが、 「ふざけんなよ」とたちまちのうちに声を荒げた。兵士は思い出したように私を地面に下した。私は天使の胴体を殴ったが、天使はピクリとも動かなかったどころか何も感じて いたかったようだった。 「やめなさい『天使』はあなたの味方です 「あんたの仲間にお父さんが食べられたんだよ!ほかにも大勢食べられたんだよ!なんでだ!!」 「あなたのお父様は放置すれば我々の殲滅対象に変形する恐れのある現在の技術では治療不可能な感染力の高い疾患に罹患していましたため国際倫理ガイドラインに基づき連合 より対象の処分の命令が下り我々はそれを執行しました」  天使は一息に説明したが、それが私の神経を逆なでした。 「お前が殺したんだなおめーが!」 「データは共有されています。あなたのお父様の処分を執行した機体は■■■■中隊所属の■■■■小隊の」 「そんなこといらねえから!」 「機体IDは伏せられており我々には公表する権限はありません」  私はいつの間にか殴りながら蹴りながら泣いていた。天使は能面のような顔で私を見下ろしていた。背後の兵士がやっと私を天使から引きはがす。私は崩れ落ちた。  成績がすこぶるよかった覚えも、物分かりがよかった気もしないが、このときばかりは途方もない悲しみと無力感に襲われたのだった。父親を救うのなんて、子供にはどだ い不可能な話だったのだ。  兵士が、どうかお願いします、と天使に言った。天使は私に行きましょう、と言った。破壊の音が後ろでしている。 「では私はアレの駆除に向かいます。どうかあなたが無事に着けますよう」  兵士はそう言って私たちを置いて激しい音のしている、生臭い霧の向こうに行った。  私は涙を拭きながら、灰色の天使とともに基地に向かって歩き始めた。 何もなく、数時間後には兵士の言っていた基地についた。ただ、道中、先を行く天使が一度きり振り返ったことがあった。 「よかった」  とだけ言って、それきりであった。  ■■■■■■■  そうして、私は基地で離れ離れになってしまっていた友人ら教師らと再会したり永遠の別れがあったりもしたし、私を案内してくれた兵士と点ににはそれきり二度と会うこと もなかった。母に至っては安置されていた。  あれから少なくとも十五年以上は経った。結局連中との戦争は終わりが見えず、大学を卒業した直後に私は徴兵された。詳しいことは記せないが、私は『天使』を扱う部隊に 配属され、『連中』の駆除に日々駆り出されている。『連中』には、かつての父のようになってしまった人々も含まれている。  かつてあの天使の言っていた感染力の高い疾患とは、空気感染などで容易に罹るもので、あの日の場合は調理師に付着していたものが総菜に付着し、それを食べた人が発症し かけていたのであろうと考えられている。  私はもう天使は憎いとは思わないし、かといって好いている訳ではない。だが父に対して行われたことは許す気はない。  天使は私の初めて見た物とはだいぶ変わってしまった。光を反射しないグレーの装甲だったのが、連中が色彩を判別しないことが分かった途端、部隊や兵科ごとに様々な色分 けがなされたし、美しいのは変わらないが女性のような見た目の物が多くなった。能面のようだった表情は人間のように豊かになった。私はそれらがどうも苦手であった。  これを記している現在の天気はあの日と同じように橙色が冷めきったような灰色の空、要するに曇りである。これまでの忙しい諸々が落ち着き、記憶の反復も兼ねて記しては みたものの、記憶の欠落はあるし、当時の記録と照会してみても矛盾があったりして人間の記憶力はどうも信用ならないと痛感している。ただ、想像より長い内容になったこと だけは確かだ。  あの兵士と天使に再開したいとは思わないが、再開してしまったらどんな会話が始まるのか想像せずにはいられなかったりする。  部隊就きの天使に呼び出されたのでもう行かねばならない。天使も変わるように連中も変わった。例えば私がアイツと呼んだモノはめっきり見なくなった変わりにウマくらい 小さくなったアイツが集団になって襲ってきたりする。  今度の遠征では前線に赴くため、このように記録している暇はないだろうし、最悪二度とないかもしれない。遺書ではないがこの手記は印刷して徴兵されなかった友人に送る のと、手元のUSBメモリとクラウドデータの三種類に分けて保管したいと思う。残したいデータがある場合は媒体は少なくとも三種類に分けろとは誰の言葉だっただろうか。別に この記録は機密に関わるようなものは何一つ書いていやしないし、私だって昔と変わらずそこまでの地位も名誉もある人間ではない。ただ、私は家庭を持っていないからこうい う形で残したいのかもしれない。  記したいことはほかにもっとあるのだが、今はこれが限界だろう。せめて偶然これを読む人が、私とその周りに何が起こったのかを、そして、この戦争の始まりのほんの一端 を知りうることを願ってやまない。

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