子供が修学旅行でいない日の夜だった。久しぶりに仕事が長引いた日でもあった。外は大雨で、それをBGMに遅い夕食後に妻と夫婦水入らずで思い出に花を咲かせているところだった。
「私、人魚を殺したことあるんだ」
唐突にそう言った。妻の話を発端とした一つの話題が終わり、さて今度は此方の番だが何を話そうか、今夜用事があるタイミングをいつ切りだそうかと考えていた一瞬の隙を突かれた。
「は?」
「人に魚って書くやつだよ」
 妻はそう言うと手元のマグカップに淹れてある、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。学生時代からの交際から結婚して今年で二十年になるが彼女がこんなおかしな事を言い出すのは初めてである。
 真偽は兎も角、私は、人魚というと上半身が人間で下半身が魚の女、要するにディズニーやアムステルダムのアレみたいなやつであろうか。そう聞くと、そういうのじゃなくて日本の妖怪めいたやつだと返ってきた。
「つまり、人の首に魚の身体みたいなやつか」
「そうだよ」
 それなら一度見たことがある。本物じゃない、博物館だったか美術館だったかで展示されていた江戸時代の本に姿が描いてあったものだ。波の上にいて、般若みたいな怖い顔をしたやつである。
伝承では、その肉を食べたら不老不死になるのだ。
 妻は大嘘を付いているのかもしれない。だって人魚だ。人魚の伝承はクジラやマナティーの全容が陸から把握できないところから生まれた、人間の空想の産物だ。それのミイラと称するものが全国津々浦々にあるが、そういうのは魚や猿の死骸なんかを加工してできた偽物だというのは有名である。科学が発達し、人類が月に登っても、人間の想像の内にある形而上の存在なのだ。
「そういうのを殺したのか?」
「大きかったから大変だったよ。頭が人と同じ大きさだったから」
と言って、両腕を食卓の横幅と同じくらいに広げて大きさを表現せしめた。生き物としてはかなり迫力のある大きさである。生物部のカエルの解剖を見たことがあるが、あの小ささと比べると殺すものとしては猶更である。
「どんなふうに大変だったんだ?頭は兎も角、胴体は魚だから簡単そうなんだが」
言い切ったところで、しまった、どうしてこんなこと聞いてしまったんだろうと後悔した。そんな質問をしてしまうだなんて、なんだか粗探しをしていると思われかねないようなものだ。が、遅かった。
謝ろうとしたところに妻は一息置いて、
「なかなか死なないというか」
さっきよりももう一息長く置いてゆっくりと
「あっちが頑丈というか」
最初の時よりも二息おいてとてもゆっくりと、怒られた子供のようにうつむきながら
「こっちが下手だったというか」
 楽にしてあげる才能がないというか。
段々妻の表情が曇って来たので私は慌てて話を変えた。人魚かともかく、大きな生き物を殺したことは本当なのかもしれない。
「いや、やめよう。この話は。礼奈ちゃん無理に思い出したりしなくていいから、ね?代わりに俺が高校の時に校庭に鹿と熊が出てきたはなしを」
 いいから、と苛立って物を投げつけるように妻が話を遮った。
「話させてよ」
 妻が顔を上げた。
「これはふみ君のためでもあるんだよ」
妻は結婚する前は私の名前をもじって「ふみ君」と呼んでいた。ああ、この渾名で呼ばれたのは何年振りだろう。子供が生まれてから、私は妻を「お母さん」と呼んで、妻からは「お父さん」と呼ばれるようになってずいぶんと、あるいは忘れているだけで短くない時間が経っていた。
妻がこの呼び方をするという事は、今この瞬間から互いを家族という単位ではなく、一対一の独立そして断絶した一人の人間として見ることを意味していた。
 呼び方から理解できる。心構えを新たに、今までにないような真剣な眼差しで対峙した妻は、むかし絵でみた人魚のようにこわいをしていた。

小学生の頃なんだけどね、弟と海に遊びにいったんだ。その頃はいとこの家が海の近くにあってね、ふみ君も知ってるでしょ?まあ、あの家そのものはどうでもいいのだけれども。
いとこは生まれたばっかりで遊べないから、私は弟と、要は悟と一緒に海に行ったの。当時はまだ小さくて、でも見飽きるには世の中は大きすぎるわけで、場所も田舎な分けで、要は安全で自由だったわけ。
ガキの温室だったわけよ。
小学生の時かな。三、四年生というか。テレビでも注意報が出されるというか鳴るような凄い嵐というか台風が来て、外に出れない日があったのよ。で、翌日凄くいい天気でもちろん外に遊びに行ったのよ。台風の翌日って海岸に普段じゃお目に掛かれないような色んなものが流れ着くんだ。
人魚もその中の一つだったのよ。
私と悟は大きな流木とかタイヤとかを探しに行ったの。海岸にはさっき言ったみたいな漂着物が沢山あったんだけど、どれもイマイチのものばかりだったの。なんか半端な大きさなやつばっかりで。思えばよくあんな汚くて危ないところにいったよね。なんも収穫無いから帰ろうかなーって考えてたら、悟がいきなり叫んでコッチ来て!って私の事呼ぶのよね。
私が探してた場所と悟がいたところまでそれなりに離れてて、最初ソレが見えなかったのね。いきなり叫んで何か面白いものでも見つけたのかなーって走って近づく内に段々と悟が何で呼んだのかだんだん分かってきたの。
近づく内に悟の足元の漂着物の中から頭がでてたのが見えたの。
馬鹿野郎それマネキンじゃん、て思ってね。でもちがった。悟のそばまで行ってみたら、そいつは呼吸をしていた。瞬きもしていた。色白というか、病人の肌色でね。髪の毛が長くって黒いの。見た時はほんの一瞬だけ本当に苦しそうでね、目が合った瞬間、助てって目をしてたから助けなきゃって思った。んだけど、すぐに
「お前を殺す」って決意したの。不思議だよね。どうしてもそうしなきゃって、考えがそうなってて。病人みたいに具合が悪そうな子にだよ。でもどうしてもそうしなきゃって、生き物を食べる以外で殺すのって悪いことなのに、そうしなきゃって。
 くどかったねえ。
殺すと決めた時にはもう人魚を叩いてたよね。悟が見てる前で。もちろん自分の手じゃなくて、その辺の流木でね。このまま海に返したらいけないと思って。いや、海に返ったら何が起こるとかは解ってないし今でも知らないよ。でも、「そう」しなきゃって。
悟はもちろんびっくりしてた。こいつはナニをしているんだって目で見てきた。あの目は忘れられないよね。今でも思い返すのは嫌なんだけど。、私はその時は馬鹿じゃねえの一緒にやんだよ糞がってなったよね。十分やばいんだけどさ。
話はもとに戻るんだけど叩いた人魚はなんだか表現しにくいんだけど、まあ呻き声みたいなのを出したんだよね。顔叩いたから。さぞ痛かっんたろうねえ。演技でも聞きたくないような声だしふみくんにもこれからも聞いてほしくないような声だよ。本当にぎゃって言ったのかって言われるとアレなんだけど、確実にか行に濁点な発音だったし。
まあ兎に角すら殴ってたね。途中から悟も仲間になってくれてね。嬉しかったよ普通に。ほぼ姉弟初の共同作業だよ。糞みたいな共同作業だな。ふみ君よりも前だよ。
餅つきのすごい早い奴があるけど、あれの遅い版みたいな殴り方だったよね。アレはなんだか抵抗した気がするけど。たまに死ぬ気で抵抗したなら強姦とかされないみたいな言い訳あるけど、される側としてはなんか言い訳としてなら理解できるなって感じの抵抗だったよ。
まあいつの間にかミンチみたいになってたんだよね。あれ、なんかおかしいぞって。感触が柔らかいんだよね。頭蓋骨がね、そこからなんか脳みそなんだろうね、あれが。見えてて。で、私たちの服も体もめっちゃ汚くなってたのよそいつの血で。ああ、やばいなーってなって。
すぐに海入ったよ。人魚殺したって言っても信じないろうけど、血塗れなんじゃ絶対に何かしら怪しまれるだろうし。証拠隠滅を測った訳。まあ血とかは着いたばっかりだったからすぐに取れたけどね。
「それでここからが本当に大変なところなのよ」
「まだあるのか」
 ミンチみたいになったとはいえ形もしっかり残ってるし大きさもそれなりだったからね、次に死体どうやって隠そうかってなったときには参ったねあれは。
参るくらいなら最初からやるなよって話だけどやっちゃったもんはしょうがないしやるなって方が無理な話だし。
海に近いからそのまんま波とか満ち潮とか台風とかがさらってくれるから大丈夫じゃないかなって言ったら、悟が「もしコイツの仲間がコイツの死体を見つけるようなことがあったらマズいんじゃないの?」って言ってきて、「見つかったら復讐とかされるんだよ!家に来たり怪獣が来たり!」って。私は仲間が復讐に来るとか全然思わなかったんだげど、確かにここに死体を置きっぱなしにしてそのまま誰かに見つかったらマズいなって、悟のおかげで初めてその発想が出てきて、ああどうしようって。
 最初は運びやすい大きさに切ってそれぞれバラバラにして捨てようって考えたんだけど、包丁とかどうやって持ってくるのって話になっちゃうのよ。自分の家じゃないから台所の包丁のありかなんてわからない。いとこの家は祖父母も暮らしてたから大抵家には誰かいて、包丁を出して戻したことがバレない時間帯なんて把握しようがないし。包丁をもって外出するなんていくら親戚の子供でも絶対に許してくれないだろうし。こうしてるうちにも誰かがやってきて、私たちを咎めるかもしれない。
より取り返しのつかないことになるかもしれない。
「でも君が昔何かやらかしたなんて話、今の今まで聞いたことはなかったぞ」
「そう、結局隠蔽工作は成功したんだ」
 簡単に言えば嘘を駆使したんだ。悟に見張りをさせて、私が大きいやつ見つけたから土運ぶ奴貸してーって持ってくるんだ。叔父に何を見つけたか聞かれたんだけど、そこは秘密って言ってなんとかしたよ。見てからのお楽しみだったけ?まあいいや。持ってきたそれにさっきの奴を流木とかゴミといっしょに乗せて、ちょっと歩いたところの林に行って頑張って埋めたんだ。最初流木をスコップに使えばいいと思ってたんだけど、悟が足が着くとかどうこう言って結局手で掘ることになったんだよね。
 そのあとは普通にいけたよ。叔父に何持ってきたのって聞かれても思ったより大きかったから運べなかったって言ったし。服の汚れも泳いでごまかしたりして。
 今に至るまであそこで死体が見つかりましたーっていう事件は聞いたこともないし。あの後も夏休みには結構遊びに行ったし。
 ぜんぶ、うまくいったんだ。

「最後の方はえらく簡単にできたんだな」
「記憶は薄れるものなんだよ」
 
 長い話が終わった。
 終わるころには、なんだかすっかり嫌な気分になった。目の前の、連れ添って二十年になる伴侶が、子供の頃とはいえ生き物を殺した話を聞きとして語ったのだ。嘘の作り話でも、到底出来を褒めるような気分には慣れない。
「面白い話だったけど、殺したってそりゃどうなのよ。何か法に触れることがあったとしてももう時効だろうけどさ。それをそういう風に俺に話すってさあ……」
「ふみくん、このお話で重要なのは殺したことじゃないの。今に至るまで見つかってないってことなんだよ」
 妻はテーブルに膝をつき、手のひらに顎、というより頬を乗せながら答えた。
 何か真剣なようでいて、それでかなりの余裕を持った表情をしている。私は全部知っているとでも言うように。
「なんだよ。後日譚でもあるっていうのなら聞かないぞ」
「今から後日譚が始まるんだよ」
 何を言うかと思えばそんなことである。いま一番聞きたくない言葉だ。
話をする前とした後の妻が同じ人物に思えなくなってしまう前に、この話を切り上げたいと思った。このお話は仕事や育児に参った妻が作り上げた、ストレス発散のための暴力的な物語だったのだと。
 コーヒーを飲み干したカップを下げようとして、逆に手をつかまれた。
 あっけにとられていると、妻が表情の無い目でこちらを見上げていた。
「やめてくれ痛い」
「自業自得はさ、無いんだよ」
 要領を得ない言葉に苛立ちがつのる。本人はそれでかっこいいとでも思っているのだろうか。煙に巻くというよりは意味が深そうなことを言ってこちらの気を引きたいのだ。ここ数年夫婦水入らずという状況からは縁遠かった訳だし。
「いい加減にしてくれ。何が言いたいんだ」
「手伝うよ」
 身が、竦む。汗がわっと出て、心臓が早鐘を打つ。手足が縮むような痺れが来るのと同じく、俺がここにいなければいいのに、時間を巻き戻して欲しいという絶望に限りなく近い後悔が全身を駆け巡る。
 妻の顔はさっきと変わらず無表情で、俺は妻から目が離せない。
目を離したら、もっと悪いことが起きそうだから。
 バレたのだ。でも、どうして。どうやって。何でだ。そもそもまだアレは車にいれたままだ。帰って来た時妻は家にいて、一歩も外には出ていないのだ。一階の窓をどう駆使しても車の中どころか車そのものが見える場所は無い。二階からは車が見える箇所がいくらかあるが、それでも車の上しか見れないはずだ。おまけに車には天窓が付いていない。
 アレを車に入れる際に服に汚れが付かないように細心の注意を払ったはずだ。たとえ付いていても、雨や泥と混ざって判らないはずだ。
 まさか、臭いか?馬鹿な。人の鼻は犬よりも悪い。いや、でもそうかもしれない。自分から発せられるにおいは自分でも気づかないことが多い。満員電車とかによくいるよなあ。
 今この状況で電車を思っている暇はない。どうする?でも妻は何を手伝うとは一言も言っていない。だが俺は「何か」には気づかれている!しかし!妻が「何か」を言い当てない言い出さない限り、俺が「何か」をしたかは絶対に確信されることはない!
 あれこれ考えながら焦っている内に妻が俺の両の手を包むように握手してきた。妻は包んでいる俺の手を見つめている。どんなをしているのか、再びわからなくなる。旋毛が見える。
「死体埋めるの手伝うよ」
 確信されていた。緊張感が嘘のように消え、体が軽くなり、思考が異常なほどクリーンになっていく。包んでくれる掌が温かい。手が冷たくてすまない。
「やったことあるからさ」
子どもに目線を合わせるように顔を上げた。
「大丈夫だよ」
 少しだけ表情があったのが、嬉しかった。 

    
<続く>



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